鎌倉 幕府 の 一般 政務 を 行なう 機関 と は。 鎌倉公方とは何ですか?わかりやすくお願いします

問注所(もんちゅうじょ)とは

鎌倉 幕府 の 一般 政務 を 行なう 機関 と は

乱直後、朝廷は、次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。 執事というのは秘書的な存在であるが、この政所執事は、政務にも関与し、会計を担当していた。 120• 同時に、頼朝は弟の・を派遣し、平氏追討に当たらせ、、で平氏が滅亡し、6年に渡る内乱が終結した。 元々本家の京都の将軍と仲が良くなかったのですが五代目足利成氏の時代に第8代将軍足利義政との対立から享徳の乱が発生して、その過程で五代目足利成氏が本拠地を鎌倉から追われ古河に避難して古河公方と呼ばれるようになります。 「」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。 その熊直実と直光、両者の口頭弁論が頼朝の御前で行われた。

次の

鎌倉・政所跡

鎌倉 幕府 の 一般 政務 を 行なう 機関 と は

この後、北条義時が執権となり、北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当のが対抗勢力として現れた。 141• しかし、実際には頼朝が権限を握っていたため、問注所の「長官」の役目は低かったのだ。 同時期に作られたのに長官の名称が異なることもおかしいのだが、並立の関係であるならば、全て同じ名称であるべきではないのだろうか。 国史大辞典編集委員会編編 『国史大辞典 3』 吉川弘文館、1983年、549頁。 121• 一方で彼らから所領を買収・取得する事でのし上がる者もおり、その中には非御家人も数多く含まれる。

次の

鎌倉幕府の政所跡について

鎌倉 幕府 の 一般 政務 を 行なう 機関 と は

三人の初代長官を見ても、頼朝とかかわりの深い二人は「別当」の職に就いている。 日本史です それぞれの答えをお願いします。 元寇の後、生活が苦しくなった御家人を救うために出した法令を何というか。 (4年) - 頼朝が追討のため配流先ので挙兵する(頼朝と在地武士との主従関係の成立)。 やがて有力農民たちに由来する武士は、の起源となり、都から派遣された下級貴族や官人層、さらに源氏や平氏など上級貴族を上位の棟梁として仰ぎ、主従関係を結ぶことによって本領安堵を確実なものとした。 このため、「内乱に勝利したから幕府ができたのではなく、幕府ができたので内乱に勝利した」とする評価もある。

次の

公文所(くもんじょ)とは

鎌倉 幕府 の 一般 政務 を 行なう 機関 と は

源頼朝も1185年に朝廷から従三位という身分を与えられたのきっかけに私用機関としての政所を設置。 (『詳説日本史B』 山川出版) また、次のような図で示されていることが多い。 07 views per day• また、平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・と叔父・が後白河法皇から頼朝追討の院宣を賜ると、頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させること、義経・行家追討の院宣を発すること、加えて、その追討のために東国及び畿内に守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領を問わず、反別五升のの徴収権を頼朝に与えることを求めた。 鎌倉府の管国は当初関東8カ国と伊豆・甲斐だったが、1392年(明徳3)陸奥・出羽が追加された。 そしてこの権限の履行のために東国の地方官である国衙を指揮する権能も認められたのである。

次の

政所、侍所、問注所とは?鎌倉幕府初期の政治体制を簡単にわかりやすく紹介!

鎌倉 幕府 の 一般 政務 を 行なう 機関 と は

したがって、次官は一人とは限らない。 まず、頼綱政権下で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、合議制の引付衆を廃止し、判決を全て貞時が下すこととした。 『太平記』巻十「信忍自害事」• 源頼朝 よりとも も、東国を支配下に治めると、これらの例に倣って、1184年(元暦1)鎌倉に公文所を設置し、大江広元 おおえのひろもと をその長官(別当 べっとう )に任じ、中原親能 なかはらちかよし 、藤原行政 ゆきまさ を寄人 よりゅうど として文書の保管、政務の処理にあたらせた。 そのため、幕府の最高権力者が土地訴訟にかかわる問題を扱う部署のトップを務めたのも、当然といえる。 - 将軍が地頭職を推薦、斡旋できる荘園、国衙領 職制 [ ] () 鎌倉幕府の長。

次の

日本史です

鎌倉 幕府 の 一般 政務 を 行なう 機関 と は

脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 平成20年5月20日 この小論文は平成20年3月にきた一通のメールが切っ掛けとなり、都内の高校生とやり取りの上できあがったものである。 政所・侍所の長官は、頼朝の信頼できる部下であり、問注所の実質上の権力は、頼朝が握っていた。 御家人が鎌倉殿に対して負担する軍役・経済負担などを言う。 156• (3年) - 頼朝がに任命される。 律令制においては、中央集権体制が一般的であった。 154• しかし、時政の子の義時とはこの動きに反発し、有力御家人と連帯して、時政を引退させるとともに、平賀朝雅を抹殺した()。 鎌倉幕府倒幕後、足利尊氏は鎌倉を拠点に頼朝の正統な後継者として武家政権を開きます。

次の

鎌倉幕府

鎌倉 幕府 の 一般 政務 を 行なう 機関 と は

問注屋と問注所の違い 弘長元年(1261年)3月13日、「政所之郭内失火す。 鎌倉幕府以来の由緒ある機関であったので執事家の格式は高かったが、実務面では文書の真偽を判定する程度の権限しかなかった。 律令制では組織のトップを「長官(かみ)」と呼んでいた。 最初は朝廷に仕える下級貴族の官人であった。 政所が、初め公文所と呼ばれていたことはすでに述べた。 約40年の間で、将軍は政治権限を失った傀儡となり、北条氏が政所と侍所の別当を兼任するようになり、政治の実権を握るようになってしまいます。

次の